ブレシア 〜 2002年
韓国・日本W杯へ !!



 2000年9月14日
 未だかつてない約3ヶ月という長い移籍期間の後、ブレシア入団を発表 
 故郷カルドーニョでの2ヶ月に及ぶ孤独な練習の日々に終止符を打ち
 バッジョは、希望していたとおりカルドーニョに程近いイタリア北部の
 ロンバルディア州のチーム・ブレシアに移籍する事が決定した
 ( ブレシアの練習場があるエルブスコはカルドーニョから145km )
 2年契約で年棒45億リラ ( 約2億5千万円 ) ・ 背番号10番
 ブレシアB降格の場合は契約は無効
 そしてマッツォーネ監督が解任された場合も契約は無効とする
 マッツォーネ監督は、バッジョが現在のセリエAで
 最も評価している監督の1人である

 バッジョ移籍確定時にはブレシアの背番号は既に確定しており
 10番はエスポジートのものだったが
 彼はバッジョに10番を譲る事を表明しイタリア・プロ・サッカー連盟も
 登録された背番号の変更を例外的に認め
 バッジョのブレシア10番は誕生した
 また、バッジョのブレシア移籍にはブレシアのコリオーニ会長夫人が
 間接的にバッジョ獲得をコリオーニ会長に促し
 バッジョ夫人もカルドーニョに留まる意思を示したのもバッジョが
 レッジーナ ( イタリア南部 ・ カルドーニョからは約1200km )
 行きを断りブレシアに決定した原因の一つと伝えれらています

 バッジョは、「希望していたとおりの結果に満足しています
 この思いを実現する為に外国の魅力的なオファーには断りをいれました
 次の目標は、ブレシアで良いプレーをしてイタリア代表に復帰し
 2002年W杯へ出場することです」
 「私は、これ以上家族を犠牲にしたくはありませんでした
 フィレンツェ・トリノ・ミラノ・ボローニャ再びミラノと家族は文句を言わず
 私に付いてきてくれました
 そして私達は今、故郷のカルドーニョに住みたいと願っています」
 また「今私は、私のサッカー人生の中で一番厳しい状況下にいると思います
 しかし、ボローニャの時も周囲のバッジョは終わったよという意見とは裏腹に
 私はボローニャで活躍し'98フランスW杯に出場しました
 ブレシアでも、歴史を繰り返したいと思っています
 また、セリエA200ゴールの壁をぜひ突破したいと願っています」

 プロヴィンチア( 地方のクラブ・チーム ) の
 ブレシアは、バッショ獲得の資金と年棒を
 クラブ自身とブレシア銀行・メインスポンサーの
 リストーラ( 粉末ジュース等の製造 )
 PAY・TVのTELE+またバッジョ人気による年間シートの
 売上及び親善試合等の収入から支払うとみられています
 9月16日
 ブレシア・デビュー 
 コッパ・イタリア対ユヴェントス戦でブレシア・デビュー
 必勝のキャブテン・マークをまいて67分間プレーする
 試合は0−0で終了したが
 レッド・カードが5枚も出るという後味の悪い
 デビュー戦となってしまった
 しかし、バッジョにとってはインテル対パルマ戦の
 チャンピオンズ・リーグ出場権を
 かけた5月23日の試合から約4ヶ月ぶりとなる実戦だったが
 高いパフォーマンスを見せ周囲を驚かせた
 採点でGiornale di Bresciaは、7.5点
 ( ちなみに、リッピ・インテルはチュンピォンズリーグ予備予選で敗退
 その後も、コッパイタリア&セリエA初戦で敗退しリッピ監督は
 シーズン早々インテルを去った )
 あるサッカー関係者は語る「バッジョは特定のチームのシンボルではない
 イタリアの全てのサッカーファンのバンディエラ ( 旗手 ) である
 それは、彼のファンタジー溢れるプレーに人々が魅了されている事はもちろん
 一人の人間としての誠実さや同僚を批判せず辛らつな意見を吐かない態度
 ピッチ上でのフェアなプレースタイルが評価されている事も見逃してはいけない」
 バッジョの2002年への必勝の旅は始まった !!
 10月1日
 2000-2001 Serie A 開幕 第1節 対ウディネーゼ戦( アウェイ ) 4-2で敗戦
 ( シドニーオリンピック開催により、オリンピック代表がチームを離れるため
 また、イタリアとしてこれまで以上にメダル獲得を狙うため、10月開始となる )
 10月3日
'2000 Jリーグ・ドリームマッチに出場のため夫人と共に4度目の来日
 セリエA初戦の疲れを癒す間もなく強行日程での来日時のイタヴューにて
 「日本に帰って来られて満足している。
 あす(4日)は素晴らしいテクニックが披露され、
 ゴールが量産されるだろうと期待しています」
 「日本は基本はしっかりしている。あとは国際的な経験を持つことが大事だ。
 五輪やアジア杯で国際経験を蓄積すべき。
 (中田選手等)セリエAの選手がいることで、日本のレベルは上がっていくんだ」
 オフには日本への移籍も考えたが、
 この国で行う2002年W杯を意識してイタリアに残った。
 それ以降はどうなるかだね。いろいろな可能性があるよ」。
 「今回の来日で残念なのが2人の子どもを連れてこられなかったこと」
 2人のお子さんからは、ポケモン・グッズのリクエストがあったそうです。
 10月4日
 JOMO CUPに出場 日本代表と対戦する。 2-0で日本代表の勝利
 バッジョは、敢闘賞を得る
 ハーフ・タイムには、創価小学生の代表と記念撮影
 後半開始前、試合終了後の場内1周でスタンドから降られる三色旗に
 大きく手を振り答えた
 バッジョは語る
 「創価学会員なんだと自覚する事が、私にとっての大きな励みの源です」

 試合後のコメントから
 「前半の終盤のPKの判定が大変残念でした。
 1-0の状態で後半のスタートを切られれば、違う戦い方ができたと思いました
 日本代表は、組織的な素晴らしいサッカーをしているという印象を受けました
 我々のチームは今回はじめて一緒にプレーしたので難しい面がありました
 日本のサッカーについては、これからもどんどん良くなると感触を得ました」

 10月5日
 池田名誉会長夫妻出席の
 創立70周年記念・第50回本部幹部会に夫人と共に出席
 席上、バッジョ選手にSGI賞が夫人に聖教文化賞が贈られた
 また、バッジョ選手から池田名誉会長に3種類の10番が贈られた
 まず、本年8月17日のFIFA主催の
 フランス代表対FIFAワールド・スターの親善試合での10番
 次に、今回のJOMO CUPでの10番
 そして、移籍したばかりのブレシアの初試合で着用した10番
 更に、バッジョ選手は人生の師匠と仰ぐ池田大作名誉会長に
 「このユニフォームを御贈りすることで
 2002年の日韓のW杯へ必ず出場します」と決意を表明した
 また、ブレシアのユニフォームは東京・関西の創価学園にも贈られた
 さらに、バッジョ選手は来日の度に願っていた
 池田名誉会長との唱題を実現する
 題目三唱・100回の題目・題目三唱
 ( 同席していた要人の身内の方が亡くなられた事を追善する意義を含め )
 「池田先生と唱題する事が、一番の願いでした !
 本当に、本当にありがとう御座いました」
 池田名誉会長から
 「バッジョ選手の勝利を祈りました」との激励を夫人等と共に受ける
 終了後、創価大学を訪問
 創大生と情熱溢れる交歓のひとときを持ちました
 この日、池田名誉会長はスピーチでバッジョ選手の
 勝負哲学に言及されました
 また、池田名誉会長にバッジョ選手から書籍が贈呈された
 「イタリア100人の肖像」 - イタリアを代表する著名人を納めた書籍で
 バッジョ選手も掲載されており
 サインと共に「私が敬愛申し上げる師匠に
 心から尽きぬ感謝を込めて」と認めて
 
 バッジョ
 「私は、池田名誉会長と出会う事で
 私の人生の一瞬一瞬の絶大なる価値と
 私の使命を深く理解する事ができました
 『今生きている瞬間がいかに大切で
 大きな可能性を秘めているのか』を実感しました」
 「池田名誉会長は
 御自身が人生の一瞬一瞬を全力で生き抜いておられます
 また、信仰によって誰もが『自分への信頼』と
 『歓喜』をもって自身の限界に
 立ち向かっていけることを具体的に示してくださっています
 それを教えてくださった、先生への感謝の思いは尽きません」
 
 バッジョは、度重なる膝の大怪我と闘ってきた
 以前あるインタヴューで
 「18年間、家に戻るたびに腫れ上がった
 膝を見つめながら夕食をとる気持ちなんて
 想像しがたいでしょう ?
 だけど、私はどんなことをしてもサッカー選手として
 ピッチに立ちたかったんです
 だから私は自分で運命を変えることにしたのです」
 そして今回の来日時のインタヴューで
 「私にとって最も辛い試練だったのは2度目の膝の大怪我でした
 権威ある多くの医師達から
 プロとしてのサッカーを諦めるよう宣告されたほどでした・・
 ・・しかし、あの凄まじい試練をはじめ様々な苦悩を
 『炎をくぐり抜けるが如く』乗り越える
 ことができたのです
 「炎さえも、私をのみ込むことはできない ! 」
 そう確信した瞬間から、精神的に強くなりました」と語った

 豪雨の中でのセリエA初戦の疲れを癒す間もないなか
 翌日にはイタリアを旅立つ
 しかも、イタリア本国ではイタリア代表の試合が
 2試合組まれている中での来日
 滞在僅か3〜4日という強行日程
 来日翌日には、日本代表との親善試合
 そんな状況下でもバッジョ選手は来日した
 その目的は何だったのか、サッカ―選手として一人の人間として・・・・・・。
 2002年へ向けて、師匠に誓った闘いが始まった
 10月30日 
 バッジョがイタリア代表 VS セリエA外国人選抜
 ( 中田出場 ) の親善試合に招集される
 1999年3月31日の イタリア VS ベラルーシ戦、以来
 しかし、筋肉に違和感を憶えたためベンチ入りしたものの試合には出場せず
 この試合は、ローマ法皇ヨハネ・パウロU世の
 80歳の祝賀と様々な意義を含んでいる
 2001年2月24日-34歳  
 昨年の最終試合より、怪我の為、長期欠場
 約2ヶ月ぶりの復帰試合の
 セリエA 第20節 フィオレンティ―ナ VS ブレシア戦で
 前半5分にブレシア、初得点 & 後半22分に、2点目をフリ―・キックで決める
 5月5日
 第29節 レッチェ VS ブレシア戦で、ブレシア移籍後初のハット・トリック達成
 4分・59分・77分 PK  0 - 3 で完勝。 自身6回目のハット・トリック
 4月1日―6試合連続ゴールを記録する
 6月17日
 2000 - 2001 ブレシア34年振りのセリエA残留
 シ―ズンを、7位。 10得点で終える
 34歳のバッジョが、34年振りにブレシアをセリエAに
 残留させたとして、話題になる
 8月21日 
 UEFA杯出場権、獲得の為のインタ―・トト決勝・第2戦で
 後半から、出場。 PK を決めるが、パリ・サンジェルマンに
 アウェ―・ゴールを許し敗れる
 第1戦 0 - 0 第2戦 1 - 1
 9月30日 
 2001〜2002 セリエA 第5節
 ブレシア VS アタランタ のロンバルディア・ダービーで
 ハット・トリックを達成する。 自身7度目

 その後、10月3日ないし4日イタリアで記者会見に
 応じ、公の場で再びW杯出場への硬い決意を語る
 奇しくも、師匠池田SGI会長に直接W杯出場への
 決意を語った日からおよそ1年がたっていました
 ( JOMO杯で来日し、ブレシアのユニフォームを御贈りした )
 10月末  
 セレエA 第8節 ピアチェンツァ VS ブレシア 戦
 第9節 ブレシア VS ヴェネツィア 戦 と
 続けて負傷退場する
 ピアチェンツァ戦では、全治3週間と診断されたが
 強行出場し、ヴェネツィア戦で全治2ヶ月と診断されるも
 8得点目を決め、得点ランキング・トップに立つも
 第9節以降、欠場する
 11月6日
 バッジョの代理人 Vittorio Petrone 氏が
 バッジョが、ヴェネツィアのビリカ選手から試合前に
 脅迫されていたと話す
 その後、FIGC ( イタリア・フットボール連盟 ) が
 真相の調査に乗り出す
 その後、両者は会談し バッジョ側が騒ぎが大きくなった
 として謝罪し、握手をして和解した

 また、バッジョの自叙伝がイタリアで出版され
 リッピ監督についての批判的な内容で
 物議をかもし出し、リッピ側は訴訟もじさない
 構えだったが、訴訟には到らなかった
 11月7日
 日本代表 VS イタリア代表 ( 埼玉 ) 1 - 1 のドロー
 アズーリ復帰有力とされながらも
 怪我のため ?? 選出されず
 12月20日  
 バッジョの公式ホーム・ページ
 Roby Baggio Official Passion Network が、Open !!
 当HPも、公式サイトからリンクして頂く栄誉に !!
 2002年1月  
 バッジョの代理人、ペトローネ氏が、イタリアのラジオで
 バッジョが、今回の危機的怪我を克復したのは
 仏教 ( イタリア創価学会 ) の、祈りの御蔭だと話す
 バッジョの自伝 - Una porta nel cielo ( 空の扉 ) が
 バッジョ夫妻と、代理人のペトローネ氏から
 バッジョのサイトともに、池田大作SGI会長に贈られた
 また、同書の序文には池田SGI会長が序文を寄せている
 そして、2002年春には、日本語版も出版される
 1月23日
 コッパ・イタリア 準決勝 パルマ VS ブレシア戦で
 約3ヶ月振りに復帰となり、ピッチにも立ったが
 試合直前に入った、ブレシアの ビットリオ・メロ選手の
 交通事故死により、試合は延期となる
 1月27日
 約3ヶ月振りに セリエA レッチェ VS ブレシア戦で復帰
 1 - 3 トニとE.フィリッピーニのゴールで
 メロ選手と家族にに勝利を捧げる
 1月31日 
 メロ選手の、事故死により延期されていた
 コッパ・イタリア 準決勝 パルマ VS ブレシア戦 が行われ
 バッジョは、ベンチ・スタート
 後半 1分に、Yllana と交代しピッチに立つ
 10分に、中田選手のゴールで 1 - 0 とリードされた後の
 後半 14分、パルマ・ゴールエリア前で
 ターンの途中に自ら転倒する
 負傷のため担架で、そのまま退場し Salgado と交代する
 怪我を克復したばかりの、バッジョに再び大きな困難が襲いかかる
 その後、怪我の重大さが次第に明らかになるり
 復帰までには、少なくとも 3ヶ月必要とされる
 イタリアでは、 Baggio - W杯絶望
 状況によっては引退か ?? との報道が
 2月4日
 ボローニャの Rizzoli 病院 の Marcacci 医師の執刀で
 早期回復を目指し自身5度目の手術を受ける
 しかし、結果は左膝十字靭帯損傷で3ヶ月の重症
 そして・・。

 Baggio の、代理人Vittorio Petrone 氏は
 「Baggio は、カルチョを去ることを望む」 と
 イギリスのWeb-BBC に対し発言
 「初めから我々は異なった結果で希望した、しかしロベルトは
 今は、カルチョを去ることを望む
 たとえ今日彼が、新生活を始めることを望むと言うとしても
 我々は、彼に思いとどまらせようとするつもりだ
 夢を持ちなさい
 彼は、プレーするために戻るのに値するから」

 この、ニュースは直ちにイタリア国内はもとより
 世界中を駆け巡りました
 日本の、スポーツ紙は言うまでもなく
 一般紙も 「バッジョ引退を示唆」 と報道しました

 これに対し、イタリア・サッカー界そしてバッジョの友人
 世界中のファンから、メッセージが
 サッキ氏のコメント( 前イタリア代表監督 )
 「 Baggio は継続しなければならない」
 「私は、彼についてはそしてカルチョのためにすまなく思っている
 しかし私は彼が継続をとるであろうことを確信している
 それは非常にプレーするのに立派であるので
 彼はストップすることができない
 それは継続しなければならない」

 「不幸にも私は、彼の多くの事故に遭遇した
 '94年のW杯アメリカ大会
 私がリミニを監督した84年、そして今同じくこの最後の事故に
 彼 がそれから取り戻され
 そしてが、素晴らしいキャリアを持っているから
 たとえ、今後の選手生活がそれほど長くないであろうとしても
 Baggio は、復帰しなければいけなた
 私は Roberto に心からの敬意を抱いて
 持っている全ての愛情で彼のために祈る」
 
 Baggio の母親のコメント ( Mamma Baggio )
 「私は何も知らなかった」
 「私は、若干私から電話をしたということである」
 「私は他の何も言うことができない」

 Baggio の父親のコメント
 「それは、息子の決定次第」
 「非常に悲しい、そして難しい瞬間たとえ事故のシーンを
 テレビで見ていたとしても
 我々は、すぐにもっと悪い状態を恐れた
 ロベルトは、W杯に参加するために大いに努力した
 しかし、彼は多くの性格を持っている
 そして彼はどのようにして
 再びゼロから立ち上がるか思考するであろう」

 ブレシアのCorioni 会長のコメント
 「決して彼は、放棄しない人間だ
 Baggio は競技に戻るであろう
 そしてそれは常に上を目指して闘うであろう」

 イタリア代表 Giovanni Trapattoni 監督コメント
 「私は、非常にすまなく思った
 私は常に Baggio と良い関係を持っていた
 私は、彼が「フィールドに戻る力」をまもなく見いだすであろう
 ことが確かであると思う
 「Baggio の非常に類稀ななキャリア
 この手術が彼を危険にさらさないことを非常に望む」

 ユヴェントス Lippi 監督
 「私は、Baggio がピッチに戻ることを望む」
 「私達は、ユヴェントスとインテルの両方の時代に
 共に良い関係ではなかった Baggio は、自伝でひどく
 「 Marcello Lippi は、私を迫害した」と書いた
 今日、どんなに不運の瞬間に、 bianconero( ユヴェントス ) が
 すべての過去を忘れてそして深い情愛がと
 考えを Baggio に向けるとしても
 「私は、彼のために祈るもう1つのキャリアの不運な旅行が
 ここで終わってはならない


 A.Cミラン & イタリア代表 - Maldini のコメント
 「私はロベルトに電話をしようとした
 しかし様々な利用から話せなかった
 私は、とても Baggio のために残念に思う
 私は、Baggio が彼自身を引退させる
 意図を持っていると信じることを望まない
 私は邪魔と不安の彼の心を理解する
 私は彼が、プレーするために復帰すると信じ祈る」

 2月5日
 Baggio は 5日午前中に
 彼の父親と彼の妻、 Andreina
 2人の子供たちの訪問を受けた
 午後には、 Lucio氏 Baggio の昔からの心の友
 

 そして、
Baggio 現役続行を表明
 Baggio への訪問での Ramazzotti ( イタリアのポップ・スター )
 「Baggio は、競技に戻るであろう」

 Baggioは、Ramazzotti に言った
 「私は、プレーするために戻ることは確かである」

 代理人、Petrone氏 
 Baggioは、元気です
 彼は平静で、そして冷静であり楽観主義者です
 可能な限り急いで回復することを心がけている
 Baggio は、復帰へのモチベーションを持っている」

 2月7日
 ボローニャの病院を、11時に退院
 一旦カルドーニョの自宅に帰宅。 数日を過ごし
 再び、ボローニャで W杯出場を目指しリハビリを開始する
 2月18日 - 35歳
 Baggio は、35歳の誕生日を前に友人の
 Lucio Dalla の TV 番組に Ferilli と共に松葉杖を
 ついて出演し
 2002W杯への、出場を目指して闘う決意を表明しました
 「私がプレーし続けます
 私がまだ心の中で私が1年半の間今まで抱いて
 あやしていた夢を持っているから、私はプレーを続けます
 数週間前、1度希望は断たれたように思われました
 パルマ戦での怪我は、私はもっと悪い状態であるを恐れました
 しかし、5度目の手術の後に私は見方を変えた
 そして私は、私の夢を育て続けるであろう
 そしてイタリア代表が決定する最後の日まで闘います
 私には、ほとんど時間がないかもしれない
 しかし私は少なくとも セリエA
 の最後のゲーム ( 5月5日のボローニャ戦 )
 に出場するために
 持てる力をすべて出しきって闘います」

 数日後、リハビリ中の Roby に
 Official Passion Network で募集した
 バースデー・メッセージを公式HPのスタッフが
 届けてくれました
 4月17日
 イタリア代表監督 ジョバンニ・トラッパットーニが
 「Baggio を、イタリア代表に招集するつもりはない」 と
 発言したと、イタリアのメディアが報道する
 ( 私は、健康な選手を World Cup に連れていく )
 4月21日
 セリエA 第32節 ブレシア vs フィオレンティーナ戦で復帰
 いきなり、2ゴールを決める
 左膝十字靭帯損傷で3ヶ月の重症と言われていた
 Baggioが、76日で復帰
 それまで、同じ怪我の最短記録のネルボ選手の
 100日を大幅に更新
 「私は、自分自身に勝利した !! 」と宣言
 このゴールを、親友で代理人の ヴィトリオ・ペトローネ氏と
 家族、そして全てのファンに捧げるとコメントし
 これからも、情熱と希望を持ってプレーし続けると宣言する
 5月5日
 セリエA 第34節 ブレシア vs ボローニャ戦で
 98日振りに、90分間プレー
 後半28分に、PKを一旦パリューウカに止められるも
 はね返りを決め、セリエA残留へ向け決定的な役割を
 果たす。 3-0 で、勝利し
 セリエA残留を確定し、W杯へ向けて全てをやりきり
 トラパットーニの決断を、希望を持って待つ
 5月8日
 ジョバンニ・トラパットーニ監督が、2002韓国・日本W杯
 イタリア代表メンバー、23人を発表
 そこに、 Roberto Baggio の名前はなかった・・。
 5月11日
 再び、引退について発言したと報道される
 そんな中、16日に GARILLI TROPHY という
 親善試合に参加
 サッキ・イタリア前代表監督との抱擁の画像が配信される
 5月18日
 ヴィットリオ・メロ選手の、追悼試合に参加する
 5月27日
 ヴァカンスのため、アルゼンチンへ出発する
 マッツォーネ監督は、ブレシア残留を25日発表
 Roby 、来期は ??
 6月20日
 アルゼンチンでの、ヴァカンスを終え帰国
 ( イタリア代表も、この日同じく同じマルペンサ空港に
 帰国、奇妙な、偶然の一致と報道される )
 再び、家族とのヴァカンスに入り
 来シーズンについて熟慮するとコメント
 ( 報道では、ブレシア・ボローニャ・ラッツィオ
 スペイン・イングランドそして、日本との情報が
 Roby は、マッツォーネ監督が残留を決定しているが
 自分が、残留するかは決めていないとコメントする )
 7月13日
 Roby は、ブレシアと新たに
 2年契約を結ぶ
 7月18日
 Roby は、インタヴューに答え
 2006年、W杯ドイツ大会では自分はまだ
 39歳だとし、闘い続ける意志を示す